「ケアとソーシャルワーク  笹岡眞弓さんと」広井良典『ケアのゆくえ 科学のゆくえ』岩波書店,2005.12,pp.137-144

本対談は、『看護学雑誌』(医学書院)での連載を本書に再褐したもの。笹岡眞弓氏は、対談当時日本医療社会事業協会副会長。(現在同協会会長、文京学院大学助教授)雑誌の読者が看護師であることがポイント。他者に自らの職種について説明する時に参考になる。


広井:SWの配置が増えてきたのはなぜでしょうか。(p137) 笹岡:「”治療は病院で完結”という時代が終わり、退院の質ということが意識されるようになってきたから」(p137)「医療に対する評価が厳しい昨今、『信頼される病院』になるため」(P137) 広井:笹岡さんは「ソーシャルワーク機能」をどのように考えられていらっしゃいますか。(P138) 笹岡:思い切って簡単にいうと、徹底した対等のパートナーシップのもと、本人の希望を保障すること、その人が自由に生きる権利を保障することだと考えています。(P137) 自分たちの作る青写真ではなく、本人が作った青写真を重視する。SWは、その人のストーリー、その人のオリジナリティ、その人がどのようにそのことを考え、その人自身がどのようにしたいのかに寄り添っていく。・・・正しいか正しくないかではなく、その人自身のリアリティを重視します。(PP.138-139) 笹岡:(改訂版「医療ソーシャルワーカー業務指針」で経済的問題の解決調整援助が、1位から5位に降格したことについて触れ)私は実は、経済的問題をやはり1位にあげてほしいと考えていたんです。というのは、まずは経済的問題を制度的に支援することを入り口にその人にかかわることによって、相手を傷つけずに対等なパートナーシップを築けるという利点があるから。(p140) 広井:看護職のケアの拠点は本来「医療モデル」にあり、それが心理・環境・生活モデルへと幅広く派生しつつありますが、SWの場合も、本来の拠点「生活モデル」にとどまらず、心理・医療・環境と幅広く対応できることが今求められているといえますね。(p141) 笹岡:ソーシャルワーク業界の目下の課題は、経済的・制度的・社会的な部分のケアをきちんとしたうえで、心理的ケアできるような万遍ない支援ができる「ソーシャルワーク理論」を確立することです。残念ながら、心理的支援の専門職としての高度な教育が含まれていない現在の日本のSW養成を変革することもその一つですね。(pp.141-142) 広井:「本人の希望を保障する」というお話がありましたが、どこまで本人の意向をそのままに受け入れるかは非常に難しいところだと思います。本人の意向を尊重するだけでは立ちゆかないジレンマがあるのではないですか。(p142) 笹岡:それはあります。・・・その人のニーズと”わがまま”の境界はどこなのか。社会はどこまでをニーズとして認めてくれるだろうか。これは非常に曖昧なもので、決定的な境界はありません。ソーシャルワーク自体の専門性の曖昧さがここにあります。曖昧だからこそよいということもあるし、曖昧な部分というのは必ずありますから、私たちはその部分をこそ担当するのだと自負しているわけですが、これをやり遂げるには、非常に高度な専門性が必要です。(p142) 笹岡:かつては協会として病床割り当ての配置基準を求めていたこともあるのですが、私の個人的な考えでは、今後は、安心できる地域での療養生活を確保することとの交換として、診療報酬を加算してもらうという方向でぜひ検討していただきたい・・・何人置くのかではなく、必要な人に必要な支援をいかに行ったかです。(p143) 広井:SWの方々がもう少し社会にアピールしてもよいのかもしれませんね。(p143) 笹岡:「実はその鍵は、看護師さんが握っているのではないかと思うのです。看護師さんが問題を抱えて退院する方を発見したときに、いかにMSWと連携するかがポイントになってくる。」(pp143)「看護師さんの場合、本人が『社会的資源は必要ない』というと、『そうですか、やむ終えませんね』と終わりになってしまう傾向があります。なぜその患者さんは社会的資源を必要としないというのか、逆にどういった支援を必要としているのか、そういう点を患者さんから聞き出して有効な支援に結びつけるのも、ソーシャルワーク機能の一つですから、ぜひMSWと連携していただいて、一人でもこういう患者さんをそのまま送り出すことがないようにしたいものです。」(pp.143-144) 注)赤字加工は筆者によるもの。
【コメント】 赤字の箇所は、常日頃から悶々と考えている私自身の課題でもある。 出来高払いとした場合、自らの行為でクライエントに援助を行い、そして経営に貢献できるといった点で、他職種が行っている基本的行為に仲間入りできるという利点がある。一方、経済的問題を抱えているクライエントに対して解決調整援助を行えば行うほどクライエントの経済的負担がかさんでしまうという矛盾が発生しかねない。 その様に考えると、配置基準によりストラクチャーへの報酬(おたくはSWを配置しているから、入院基本料に○○点/日加算してあげるよ)とした方が、矛盾を回避できるのではないだろうか。しかし、出来高払いによって他職種と同じ土俵に立てる、今まで以上に自身の行為1つ1つに責任を持てるという利点も見過ごせない。 クライエントが「放っておいてくれ」といった場合、むしろ本当に放っておくのはSWのほうが多いのではないか(もちろん、社会資源を活用した場合の効果について、また活用しなかった場合のリスクについて説明は行うのだけれども)。SWは脱権威/クライエントのナラティブ・ストーリーの尊重という点では妙に醒めていて、「本人がそう言うなら、これ以上こちらの価値を押し付けるのはやめよう。」と思考しがちではないのか。 それに比べて中間管理職以上の看護師のほうが、「放っておいてくれ」と言うクライエントに対して、「何でそんなこと言うの。だって○○を使えばもっと楽になるじゃない。使わないと××になっちゃうからきちんと使いなさい。」と価値を持って、クライエントの価値領域にどんどん入っていく。結果として、「まあ、そこまで△△看護師さんが言うなら使ってみるか・・・」となり、数日・数ヵ月後「△△看護師さんがあの時色々アドバイスしてくれたから今助かっています。」と言う顛末になることがある(ならないこともあるが、それはSWでも同じ)。 クライエントが混乱状態に陥り冷静な判断が出来ない場合には、危機介入理論という手段によって、SWも上述の看護師と同様の援助を「意図的」に行う場合もあるだろう。しかし、何かこの辺りに釈然としないものがある。それは、大学院時代にある教授からの「これからの時代は、近所のおばちゃん的な援助の方が有効なのだと思う。」という発言に影響を受けているからかもしれない。ナラティブ、エンパワーメントといった思考方法(当事者の価値・思考を尊重し、外在的ではなく内在的な力を引き出す)で溢れ返っていた研究風土の中で、ご自身もそれらのことを熟知されていたにも関わらず、その結論に至ったことに私はとても驚いたことを覚えている。 つまり、看護師による拒否的なクライエントへの強烈な価値の提示は、価値領域に踏み込まれて嫌がっているクライエントにそれでも価値を押し付けることで両者の関係が破綻してしまうといった失敗事例があったとしても、個々の援助の総和でいけば、SWによるクライエントへのおごそかな価値の提示(及び気づきの促し)の効果に比べて、個人に良い効果をもたらすことのほうが多いのではないかということを最近考えている。 いやはや考えすぎなのだろうか・・・