良き隣人と哲学者の狭間でソーシャルワーカーはどう実践を展開するか

はじめに 様々なソーシャルワーカー(以下、SW)と出会い、関連書を読む中で、どうもSWとしての実践の拠り所が、良き隣人と哲学者の狭間でどっち付かずの状態にいるように思えてならない。そういった気持ちは、この仕事を始めて以来、確実に増してきている。 先回、9月26日の拙記事「ソーシャルワーカーにとっての記録」において、私はSWが記録を書かない各要因の共通項として、「第4に、専門的にやることが、好きではない」と述べた。その言及も上述の思いから産まれたものだ。本稿では、良き隣人と哲学者の狭間でSWはどう実践を展開するのかについて述べたい。 良き隣人としてのSW 「メアリーリッチモンドは、良き隣人としての友愛訪問を行う慈善活動(COS)から、専門性を高めSWという職業の確立に貢献した。」と大学で習った記憶がある。そこでは従来の慈善活動における実践の蓄積を基にして、原理・原則を明文化し、それを実践にフィードバックすることによって、実践の質を高めたものと理解している。 しかし、様々なSWと出会う中で、クライエントと同じ目線・立場に立とうとするあまり、脱専門職・脱知識という態度をとっているような印象を受けてしまう人をお見かけする。まるで慈善活動に戻ってしまったかのような錯覚を受ける。 具体的には、「そんな福祉の勉強ばかりしたって、現場では役立たないから。」「研修行ってもいいけど、あんまりのめりこみ過ぎないようにね。」「福祉の専門バカにはならないように。」といった発言。また、先行実践・研究などを書籍や論文から学ぶことなしに体当たり的にクライエントに関わる、自己の実践を内部に留めてしまい外部に発信しない、素人臭いままでいて社会人としての常識・経験だけで発言する、といった行動。そういった言動が目の前で度々交わされる。 もちろん、そういった中でもより専門性を高めるべく日々苦悶しているSWがいらっしゃることも承知している。白澤先生の「ケースワーク処遇の効果測定に関する一研究-ケースワーク批判の克服を求めて-」という論文には、SWの専門性・科学性を求めた数々の研究が紹介され、またSWによる援助効果への批判にSW・研究者がどの様に答えてきたか、その歴史が書かれている。未読の方は是非お読み頂きたい。 脱専門職・脱知識といった態度の背景には、三島氏指摘が大変的を射ていると思う。以下、長文だが引用する。 「よりよいソーシャルワーク理論を追い求め社会福祉実践の『科学』化を進めることによってソーシャルワーカーは専門家になるといった考え方は、この学問の草創期から約半世紀もの間、専門職化を語るうえで前提とされていた。しかしながらこれに対し、突然異議が唱えられた。1960年代からの反専門職の思想である。専門家として、あるいは学問として社会的に承認されないまま、ソーシャルワーカーそして社会福祉学は批判されることとなった。そこでは社会福祉学の「科学」性を高める客観主義的な学問のあり方が、パターナリズムの温床になると指摘された。マルクス主義者たちは資本主義体制を基盤に福祉国家が成立している点を非難したが、その彼らさえ否定しなかった、知そのものが標的とされたのである。これまで骨身を削って重ねてきた『科学』化への努力が無意味とされただけでなく、『科学』化によってソーシャルワーカーの専門性が高まるという考え方こそが危険であると指摘された。」(「はじめに」より) そして、この様な空気感は私の住む愛知県内だけかもしれないが、未だに蔓延している。そして、この様な思考を持ったSWには、意識的にか無意識的にか次の様な言動が見られる。 「社会福祉学の学問確立に向けたこうした努力に対し、いち早く否定的な声をあげたのは福祉の実践家たち一部であった。現場にいる実践家たちはいう。学問は日常の業務には関係ない。実践において役立つことは少ない。大学での専門教育を終え、資格を手にした若者よりも、現場経験の長い無資格者のほうが現場では有能である、など。そこではソーシャルワーカーの専門性を裏付けるはずの研究の蓄積は、容赦なく放棄される。」(「はじめに」より) 確かにその通りだと思う。上記の三島の文章は、私のもやもやした気持ちを大変すっきりとさせてくれた。 実際に、脱専門家・脱知識化したSWが取る行動として私が体験したものが、以下4つある。 第1に、学会・大会・研修を企画する時に、何だかよく分からない「ほんわか」したタイトルを付けたり、場違いな講演を依頼したり、イメージキャラクターやマスコットを作ったりする。 第2に、「面接」という言葉は何だか権威的なので、「面談」という言葉を使ってクライエントとの対等性を演じる。 第3に、研修に出ない、専門書を読まない、専門的知識を身に付けないことで、福祉バカになるのを防ぐ。「私はあくまで常識を持った社会人である。あの人達とは一緒にして欲しくない。」という態度をとる。 第4に、他機関のSWと知識や実践方法を情報交換することなく、患者情報のみを交換し、自組織の円滑な運営にしか感心を示さない。 パターナリスティックな構造から脱し、クライエントとの距離を少しでも縮めること自体は良いが、SW全体の援助の質の向上を忘れ、「私の手の届く範囲の人だけが幸せになればいい。」と思っているSWはいないだろうか。それでは、リッチモンド以前の状況に逆戻りすることにはならないか。 哲学者としてのSW そんな中でも専門職として成長しようと日々努力されているSWが存在する。研修に参加してくる彼・彼女らの表情は真剣だ。 しかし、そんなSWの前に現れるのが哲学者としてのSWである。その源泉はマルクス主義の思想色濃い時期における社会事業論(労働者の貧困問題の上部構造への対処療法にすぎず、資本主義社会を存続させると批判を受けた)に通じるものがあると思われる(注1)。そして、1970年代半ば、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で、教師、医師と並んで個人を規格に合うか否かを裁定する「裁定者」としてSWを取り上げたことに代表されるように、改めて思想的な意味で批判をうけることになる。 その対応策として、ポストモダンソーシャルワークが誕生し、ケイパビリティ、ストレングス、ナラティブ、エンパワメントといった新たな概念(カタカナ)が輸入され、SWの用いる理論の中に組み込まれていった。これらの概念は、脱構築後のクライエントとSWの関係性を再構築する上で、大変役立つものだと思われる。 しかし、SWのうちこれらの概念を本当に実践に役立てている人がどれだけいるか。確かに実践出来ているSWもいるかもしれないが、彼・彼女らのうち、自己の理解の水準以下と見なした他者に対して「君達は何も分かっていない」と見下す人が少数ながらいる。私は、そういう哲学者の様なSW(研究者含め)が苦手だ。彼・彼女らは自己の中で完結している分には良いのだが、それが他者に強要し始めるとたちが悪い。強要された後輩や取り巻きは大変ストレスフルな状況に陥ってしまうからである。 中庸なSW実践を展開する では、SWとしてどう実践を展開するか。私は、良き隣人としてのSWと哲学者としてのSWの真ん中。つまり中庸なSWというポジショニングから実践を展開。過度にへりくだらず、知識を捨てず、かといって過度に偉ぶらず。ポストモダンソーシャルワークの各理論は確かにとっつきいくいけれども、向き合っていかなければいけないのは確かである。 SWは、医師の様に、薬や検査機器、手技を持ち合わせていない。だからこそ、SWとしての自己の内面に常に磨きをかけていく必要がある。そのためには、SWとしての価値・知識・倫理・社会科学的視点、理論を体得する必要がある。 常に勉強あるのみ、であろう。 注1 なお、この頃の書籍の中には医療ソーシャルワークに限って言えば、医療社会事業研究会編『医療社会事業 保健・医療保障の政策と運動』ミネルヴァ書房1964.3がある。社会変革を視野に入れて実践することなく、単に個人の生活問題への対応や心理面への介入に偏重しがちなソーシャルワークに大変厳しい批判を行っているが、今読んでも学ぶことが多い。特に、同書に収められている、右田紀久恵氏の「第2章 医療社会事業と社会資源」(pp.22-39)は、社会資源データベースを開発・活用する上で重要な視点を提供してくれたので、別稿で取り上げたい。 【引用文献】 ・白澤政和「ケースワーク処遇の効果測定に関する一研究-ケースワーク批判の克服を求めて-」『更生保護と犯罪予防』№69,1983,pp.1-35 ・三島亜紀子社会福祉学の〈科学〉性 ソーシャルワーカーは専門職か?勁草書房,2007.11 ・ミシェル・フーコー(田村俶訳)『監獄の誕生』新潮社,1977.9 ・医療社会事業研究会編『医療社会事業 保健・医療保障の政策と運動』ミネルヴァ書房1964.3