「古タイヤを引っ張り練習開始  車いすマラソンの先駆者、山本行文氏」『OVO[オーヴォ]』2015年12月25日

こういう方もいらっしゃるんですね。

【参考】
熊本機能病院スタッフブログ「《連載中》熊本日日新聞『きょうの発言』」2014/01/31
https://www.juryo.or.jp/blog/759/


「古タイヤを引っ張り練習開始  車いすラソンの先駆者、山本行文氏」『OVO[オーヴォ]』2015年12月25日
http://news.biglobe.ne.jp/trend/1225/ovo_151225_3709229645.html

笹川スポーツ財団は12月25日、「スポーツ歴史の検証」のインタビュー第 2回として、日本の車いすラソンの先駆者、山本行文氏(熊本機能病院ソーシャ ルワーカー)から、創意と工夫に満ちた挑戦の変遷を聞いた。聞き手は元NHK アナウンサーで法政大学教授の山本浩氏。
 山本行文氏は熊本県出身で61歳。自衛隊員だった1977年、砕石作業中に 土砂崩れに遭い、両下肢の機能を失った。リハビリ中に大分国際車いすラソン を見て、スポーツ心に火が付いたという。当時、レース用の車いすもなく、練習 も手探りだった。普通の車いすで古タイヤを引っ張って鍛えた。
 1982年、大分国際に初出場。いきなり国内2位(総合9位)に入った。 「やればできる」と自信を得たと同時に、外国勢との差も痛感。最大の差が練習 環境で、日本では交通事情から市街地走路での練習が思うようにできなかった。 そこで考えたのがローラー式のルームランナーの開発。効果はすぐに現れ、翌8 3年の大分では国内1位(総合8位)に。以降、89年まで国内7連覇を達成し た。
 パラリンピックも84年、88年、92年と3大会連続で出場。外国勢の巧み な駆け引きに翻弄されメダルには届かなかったが「車いすラソンはスポーツ」 という思いを強くした。96年のアトランタでは立場を代え、コーチとして室塚 一也選手の銀メダル獲得に貢献した。
 近年は指導者として活躍している。「全国ではなくブロック(地域)単位の強 化の方が選手は参加しやすい」と障害者目線で指導に当たる。今ではレース用車 いすは日本が世界最高レベル。プロも誕生した。「プロとの差が開いて、気軽に アマがレースに参加できなくなった」。手をマメだらけにして練習に取り組み始 めたころには想像もしなかった悩みすら生まれている。
 インタビュー第3回は2016年1月に、日本パラリンピック委員会の山脇康 委員長を予定している。