「『革命』を求め続けて40年、立教大学教授・尾崎新」『gooニュース』2009年7月2日

2010年10月1日に逝去されたことを正式に確認しました。実は数日前にこの情報を聞いたのですが、確実な情報が得られなかったため、以下の記事を掲載するにとどめていました。バイスティックの翻訳、「ゆらぐ」ことの認識、「逆転移」の活用など古典と革新の両方を、臨床家に説かれた先生の功績は多大なものだと思いますし、これからも読まれ続けると思います。心よりご冥福をお祈りいたします。 立教大学尾崎新先生の生い立ちについて触れた記事を見つけました。 以下、gooホームページより転載。
「『革命』を求め続けて40年、立教大学教授・尾崎新」『gooニュース』2009年7月2日 「革命」。時代がかった言葉を今も胸に抱き続けている男がいる。立教大学で精神保健福祉・社会福祉実践等の授業を担当する尾崎新-リーバイスのTシャツにジーンズ姿で煙草をくゆらせる。 40年前、暴力をふるう父から逃げ、のめり込んだ学生運動で公安にマークされた。捕まることを恐れた尾崎が逃げ隠れたのは精神科病院、彼の革命はそこから始まった。(青木彩香・立教大学) ■父から逃げて学生運動へ 高校教師をしながら研究を続け、念願の国文学者となった努力家の父と優しい母に育てられた。一人っ子だったが、甘やかされて育ったわけではない。昼も夜も休まず論文執筆を行う父は、幼い尾崎が自宅で物音をたてたり、学校内で何か問題を起こしたりすると、母を責め、ちゃぶ台をひっくり返し、暴力をふるった。 そんな父から母はいつも身を呈してかばってくれたと言う。「僕がグレたり、精神疾患を発症しなかったのは、母のおかげかな。狭い家に住んでいたからね、母の気持ちはわかるし…。いつも僕をかばってくれた」。 父へのわだかまりは成長した尾崎を悩ませ続けた。非行を犯した少年少女たちと農場を開く夢を持ち1966年に上智大学文学部社会福祉学科入学。だが、大学生になった尾崎の心をとらえたのは、1960年の安保闘争を発端に大きく盛り上がり、60年代終わりの全共闘運動による大学紛争の時期を迎えていた学生運動だった。尾崎は、父に面と向かって反抗できなかった苦しさや怒りを、形を変えて国家権力に向けることに次第に熱中し始めた。 運動の先頭に立ち、資本主義の矛盾を訴え続けた。しかし、学生運動は次第に鎮静化、活動の先頭に立っていた尾崎は次第に公安にマークされる存在になる。捕まることを恐れた尾崎は、知り合いの精神科医の提案により、東京の西のはずれにある小さな精神科病院に学生アルバイトとして逃げ隠れることに成功した。 アジ演説で、デモの先頭で、社会の矛盾を叫んでいた尾崎は、精神科病院で学生アルバイトとして働くまで、精神病に何の関心もなかった。だが、精神科病院で衝撃的な現実を目の当たりにすることになる。そこで見た現実は、机上の空論で「資本主義を否定し日本社会の革命」を起こそうとしていた人生を変えるのに十分すぎる力をもっていた。 「知ってしまった以上は、もうここから逃げてはいけないと思ったんだよね」。 ■逃げられなかった精神科病院での現実 上を向いて口を開けたまま、看護師から薬を投薬されるために長蛇の列を作る患者たち。頭に通電される直前と通電中の患者の顔。自殺予防のために内鍵のないトイレ。保護室の光景、鼻に残る湿気のにおい、全裸で叫ぶ人…。薬は投与されるものではなく、自分で飲むものなのではないか、なぜ人に覗かれるのを覚悟して用を足さなくてはいけないのか…様々な驚きと疑問が当時の尾崎の心を打ち続けた。 そんな中、何より尾崎の心を打ったのは、患者のやさしさと温かさだった。 夜勤の補助後に「食べ残しだけど、内緒だからな」と言いながらも食べ残しではない寿司とビールを差し出してくれたこと、失敗を誰にも気づかれないようにかばってくれたこと、一緒に風呂に入ったり飲みに行ったりしたこと…。 「みんな朴訥で生き方が不器用なんです。やさしすぎるから病気になったんじゃないかと考えたこともあります。日本っていう社会から見捨てられて打ち捨てられて。でもこんなに温かいっていう。特に、長期入院を余儀なくされ、帰る家もなく、社会から見捨てられた、20年30年も出られない人たちの温かさが身にしみました」 卒業後、尾崎は半年間アルバイトをした同精神科病院に就職。精神保健福祉の世界にソーシャルワーカーとして飛び込むことに何のためらいも迷いもなかった。ここの病院からまず革命をやりたい―。社会が患者を見捨てても、自分は絶対に見捨てないー。その熱い思いは尾崎の心を燃やし続けた。 就職して1年が過ぎたある日、突然壁にぶつかった。熱い思いを抱え、患者の早期退院に少しでも力になればと意気込み、仕事に励み、手ごたえを感じるようになっていた尾崎は、ある患者との面談中に目が覚めるような一言を浴びせられたのだ。 「仕事熱心な援助者は迷惑なんだよ」。追い討ちをかけるように、尾崎は他の患者にも似たような言葉を言われることとなる。 ■「仕事熱心な援助者は迷惑」 最初にこの言葉を発したのは入院生活を15年間続けている患者である。ここ数年病状も安定しており、家族が退院を拒んでいるものの、病院の近くの工場で正社員にならないかと持ちかけられるほどしっかり働いている。そして、何より彼は、尾崎の夜勤の補助後に「食べ残しだけど、内緒だからな」と言って食べ残しではない寿司とビールを差し出してくれたやさしい患者だったのだ。 尾崎は、自分が正しいと信じてきたことの何が間違っているのかわからず、しばらくの間、ただただ自分の力不足と勉強不足を感じる日々が続いた。悩んだ末、25歳の時に病院を退職。東京都立の研究機関の研究者となる。相手に自分の考えを正確に伝える、あるいは自分の考えを実証してみる方法を研究と実践をしながら身につけたいと考えた。しかし、研究の傍ら、週に3日は精神保健福祉の現場に顔を出し続けることを怠らなかった。 転職して数年後、尾崎は一方的な考えを押し付けることで、患者の今までの生き方を破壊しようとしたことが「迷惑だ」という発言を引き出してしまったのではないか、ということに気付く。 尾崎は、病院の外で生活できる能力のある患者は、病院にずっといるより、自分の自由な事が出来る病院の外にいる方が幸せだと考えていた。そのため、患者には早期退院と社会復帰を勧め続け、夢を持つことを提案した。 だが、家族や社会から見捨てられた精神科病院での入院生活は、夢を持つことさえ許されず、自由を諦めることでしか生きることのできない生活だったのだ。 自分らしさを抑圧し、自己実現を目指すことを自ら懸命に諦めること。 必死に夢と希望を抑えこみ、徹底した自己否定をはかること。 不必要な期待を抱き、その期待が裏切られた時に傷つかぬよう、自分を守ること。 このようにして生きてきた患者に尾崎は夢を持つことを提案し続けていた…。 ■一方的なやさしさの押しつけは「易しさ」 「誰かの前に自分が存在しているときに、相手のことを考えず自分が得をしたり、自分の都合のいいように相手に伝えようとしたりする。それはやさしさだけど、漢字で言うと安易の『易』と書くやさしさです」 そして何より、相手との関係性で大切なことは、相手の情報の一つ一つを結びつけて、自分なりに相手の歴史を考えることだと、尾崎は言う。 しかし、当時の尾崎は、相手の生きてきた歴史を考えることもなく、自分一人で正しいと判断した「易しさ」で相手と向き合おうとした。その結果、患者から「一生懸命な援助者は迷惑」という言葉をぶつけられた。 「易しさ」ではなく「やさしさ」で向き合うためには、逃げずに、相手に向き合い続けることが不可欠である。自分の一方的な考えをやみくもに主張するのではなく、相手の抱えてきた歴史を考えた上で行動すること。そして時には正面からぶつかり、時にはただ相手の前に存在し続け、時には相手が気付かないように遠くから見守り続けること。 形は違うがいずれも「やさしさ」だ。 「踏ん張って相手の歴史を考える。『やさしさ』の入り口は『逃げない』ことです。『私』が『あなた』に出来ることは『あなた』の前にいることと、『あなた』と『あなた自身』から逃げないことしかないと僕は思うんです」 ■父と向き合い、仲間の大切さを知る 研究職についてから10年が経ったある日、突然研究所に電話がかかってきた。電話の向こうの女性は、尾崎の論文を読んだ、と述べ、大学教員にならないかと誘った。 「『大学には興味ありません』って答えたんです」。それは、尾崎の高校時代に念願叶って大学教授になった父への反抗であった。「父と同じ仕事は絶対したくないと思っていた」。だが、最終的には1988年社会事業大学の教授となる。 電話をかけてきた女性は尾崎にこう訴えたのだ。 「物事を丁寧に考える仲間が欲しいんですよ。一緒に学生を育てましょうよ」。 「仲間が欲しい」。尾崎の胸にその一言が響いた。 仲間—それは、尾崎が革命のために正しく必要だと考えていたものだったからだ。 教授職に就いて17年後、父は要介護状態になった。要介護状態になった母の介護と併せて現在、尾崎は両親の介護を続けている。 「僕に出来ることは逃げ出さないこと。買い物に行ったり洗濯したりいろいろ出来るんですけど、面会に行くことが一番だなと思うので、週に何度か行きます。面と向かって言えたよ。『俺はお前の息子になんか生まれてきたくなかったよ』ってね」。 ようやく父と向き合う事が出来たのだ。 2009年夏、教授になってからもう20年以上が経った。職場は、社会事業大学から、立教大学に移った。 精神科病院の状況は、1981年に「作業所補助制度」が開始され、1987年に「精神保健法」が制定されたあと少しずつ改善され始めている。鉄格子も無くなり、暗くジメジメとした精神科病院は明るく開放的な場へと、非人道的だった精神保健福祉領域の改革は少しずつ国全体で行われ始めている。 「革命」を起こすこと。尾崎を動かしている何よりの原動力は、40年前のあの日から変わらない。だが、デモの先頭から、精神科病院の現場、研究所、大学と、革命のための場が変わるにつれて尾崎の考え方は、大きく変わった。 尾崎が教授になってから、改めて気付かされたことが一つある。革命は先頭切って何かをすることだけではない、ということだ。教授となった自分が論文を発表したり、社会人になった卒業生が考え方を広めてくれたり、といった「正の連鎖」をつくることでも、革命を起こすことが出来る。 そのことに気付いた尾崎の研究室には、いつも学生がひっきりなしに訪れてくる。